『Busy Romanticist』



「この頑丈そうな、岩、見てください。
 実におおっきな岩でしょう?
 単なる岩と思わないで下さい。
 実はこれ、三十五億年前から酸素を海中に放出していた植物プランクトンだったんですよ。
 海中の二酸化炭素は数億年の長い歳月をかけ、
 今は岩になっているこの植物たちによって少しずつ少しずつ吸収され、減少していきました。
 やがて酸素は海中のみならず陸上にも放出されていきます。
 そして陸上は哺乳類や両生類が生活できるような環境に変化していったんです」


プロジェクターにはオーストラリアの大学教授が映し出されており、
饒舌に、岩をなでながら満足そうに語っている。
教授の背後には、オーストラリアの広大さを象徴するような巨大な岩山が、
すぐ横には蒼い真夏の海が広がっていた。
そして反対側には南半球の太陽の強さを表すような、こげ茶色の大地が横たわっている。

カメラのアングルは一度上空へと向けられ、
その後オーストラリアの広大な大地を映し出すよう演出を続けた。

カメラワークは再び大学教授を中心に。
画面の中の自然科学の教授はカメラの方へ振り返り、
巨大な雲を乗せている太平洋を見た後、また地球の歴史について語り始めた。
老人の白く長い髭は、海風によって大きくなびいている。
ゆっくりとした低い音域の初老の男の声は、
ただただ長い時間の経過を語るにふさわしいかもしれない。

プロジェクタールームはプラネタリウムを鑑賞する部屋でもある。
ルームの形状は半球状であり、生徒たちは適温の闇の中、
半球の天上に投影される映像を見る事ができた。
今は「地球の時間」と題したドキュメンタリが上映されている。 

 時折響く生徒のささやき声。
 咳払い。服がこすれる音。
 外から聞こえる、夏風に乗る緑の葉音。
 これらがドキュメンタリと協奏するオーケストラとなっていた。
 僕はずっとこの時間を享受したかった。

 プロジェクターの映像は突然停止した。

「はい。これで午前中の授業は終わりになります。
 午後もこの教室でプロジェクターを引き続き鑑賞するので
 昼休み後ここに集合するように。
 宿題として今日の授業の感想文を書いてもらうので
 寝ないでよおく見ておくように。
 以上」

僕は一瞬嫌な顔をしたに違いない。
偉大な46億年の歴史が、大学卒業したての22歳の若造に
穢されたような、そんな気がしたからだ。
まあでもしょうがない。
地球の歴史と違って、僕たちの学習時間は休憩やら昼飯やらで中断を余儀なくさせる。
しかたないのだ。

嫌な顔から、苦笑を含んだ表情へ。
ロマンチストからリアニストへ。
地球の一生命体から腹の減る学生へ。
僕らはきわめて変化に富む。
そして46億年とやらの悠久の歴史が、今日の午前中の歴史の授業で学んだことになった。

足音の豊かな響きを感じながら、プロジェクタールームを出た。
廊下を走りまわる生徒。
昨日の音楽番組の感想を言い合う女生徒の雑談。
プロジェクタールームの外、そこは地球の一表面で人間が忙しく活動する場であった。

僕は狭い購買で購入したパンを簡単な昼食とした。
教室で食べようかと思ったが、なんだか誰とも会いたくなかったので一人、
廊下の日当たりの良い誰もいないような一角で食べた。

少し早いが、プロジェクタールームへ移動する。
まだ昼休みが終わる20分も前である。
学校の最上階、4階に位置するプロジェクタールームは
普段勉強する教室や購買と最も遠い場所にある。
だからまだ誰も来ていないだろうと思っていた。
またそう望んでもいた。

ルームの重い、映画館にあるような扉を開けると照明のついていない球面の空間が広がる。
すぐ下の階には2000人の生徒がいるとは思えないほど暗く静かである。
階段状に並んでいる扇形の配置の座席を下から眺めると、
僕から見て左側の上の席に一人女生徒がすでに座っていた。

 ショートカット。
 薄く細い眼鏡。
 陸上部。
 
僕の中でこの3つのイメージを持つクラスメイト白河がいた。
一瞬目が合う。
僕は軽く会釈をする。
白河もそれに応じる。

僕は白河から程よく離れた席に座った。
白河を右下に見ることのできる席だ。後ろに逃げたようで少し情けないかもしれない。

妙な気まずさを感じた。
広いプロジェクタールームとはいえ、密閉された空間に男子と女子が一人ずついるのだ。
ルーム独特の暗さも気まずさに一役買っている気がする。

僕は白河とはほとんど話したことはない。
あるにはあるが、用事があるときぐらいで私的に話したことなんてない。
彼女は主に気の会う女子とよく教室で話しているのを見る。
男子生徒ともよく話すタイプでもある。
体育会らしい人付き合いというか。まあそんなふうに僕は彼女を見ていた。

僕は誰にも聞こえないため息を一つし、目の前の椅子の背もたれに頭を預けた。
目線の先には汚れた自分のスニーカー。


午前中の授業で立ち表れた僕のちっぽけな知的好奇心と
ロマンチックな気分はどこかへいってしまったようだ。
僕はその気分をもっともっと味わいたくて昼食も一人で食べたり、
少し早くプロジェクタールームに来たのに。
地球の偉大な歴史を前にしても人間の雑念は消えない。

頭を少し上げて白河を方を見た。
彼女は相変わらず正しい姿勢で座っていて、落ち着きを持ってうす暗い中に存在していた。
僕から一方的に彼女を見れる位置に座ったのは、ずるかったかもしれない。
せめて真横方向のどこかに座り、平等の立場となるべきだった。

彼女は僕の視線を気にしたりするのだろうか?
他人は思ったより自分のことを気にしていないって言うけれど、
部屋に男女が二人という状況では少しは気にしているのでは?と僕は想像する。

彼女は僕の視線を想像するだろうか?
彼女は“僕が白河を見て気まずい気分になっていること”を想像するだろうか?
僕の脳の働きは全て、これらの一連の想像に使われた。

「岬くん」
張りのある白河の声がルームに響く。
その声の持つ意味が、僕の名前であると気がつくのに時間がかかった。
「どうしたの?」
ぶっきらぼうな自分の声。
僕の頭の中のどの部分がこんな声を出せと命令しているのか不思議でならない。
「あのさ、オーストラリア好きなの?」
白河は座ったまま身体を半分こちらに向けて話していた。
「え、いや別に。好きとかそういうんじゃない、かな」
「でもさっき食い入るように見てたでしょ?プロジェクター」
白河の身体はさらに僕の方向へ向けられる。
「けっこう面白かったから見てたんだよ。ああいうの嫌いじゃないし」
白河は立ち上がり、三段程度の階段を上がり僕の席へ近づいてきた。
「他の男子はあくびしてたり、寝てたりしたから、けっこう目立ってたよ、岬くん」
「…そうなんだ」
自然に声が出た。僕はそんなふうに見られていたのか。
「白河さんも、ああいうのに興味があるの?」
ちょっとだけ勇気を込めて、自分から話題を振ってみた。
「そうね、なんというかロマンのあるものはいいよね。そういうの好き」

このとき、僕はようやく彼女が笑顔でしゃべっていることに気がついた。
薄い眼鏡のレンズの奥には真っ直ぐな目。その目で僕の顔を見ている。
彼女は正直な人なんだなと思った。それだけを思うことにした。

数秒の沈黙の後、白河さんはもう授業が始まるね、と言い元の席へ戻っていった。
僕は再び、前の座席の背もたれに頭を預け足元を見続けた。
それから数分でルームは同級生でいっぱいになり、静かな球面の空間ではなくなってしまった。

大きなプロジェクターに午前中に見たのと同じオーストラリアの大学教授が映し出された。
室内であるにもかかわらず日除け用の皮の帽子をかぶり、
その研究者は深く木の椅子に座っている。目を閉じて眠っているかのように。


カメラは室内の様子を映し出す。
趣のありそうな壁一面の木製の本棚。
薄暗い屋根裏部屋のような空間。
光は遠慮がちに斜めに室内に入射している。
太平洋からの風が小さな窓から入り込んできてる。
 
初老の紳士は目を静かに開け、帽子を取り、語り始めた。

「地球歴史探求者の皆さん。
 これから海の話をしましょう。
 海と言っても、それは古代のパンゲアを取り囲んでいた大海のことです」

教授の背景が突然、海に変わる。
青い海ではなく、深い群青の深海。
太陽の火がほとんど届かない深冷の世界。
一瞬映し出される、巨大な魚影。

僕は恐怖した。
日常にはない孤独感。
まるで自分自身が深海にいるような存在感覚。
ひどく寒く、ひどく寂しく、ひどく悲しい。
僕はプロジェクターから反射的に目を背けた。

行き場を失った僕の目は、下の座席にいる白河の目と合った気がした。


      FIN


ホームへ戻る