『ディグダグ』



 共通教育棟に貼ってあったモノクロの粗雑なチラシ。
 チラシの四隅をしっかり画鋲で留められていたものの、他のテニスサークルだったり吹奏楽部だとかのカラフルなチラシに埋もれ、そのチラシの存在感はほぼゼロに近かった。そしてどんなことが書いてあるかといえば、特にイラストや図が入っているわけでもなく、太めの油性サインペンで
 
○ 穴掘り仲間募集 ○
この夏、グラウンドにたて穴を掘りましょう
連絡先……大学院理工学科M2 牧屋 鉄郎
makiya_teturo@niftec.co.jp まで

とだけ、何の味気もなく大雑把に書かれている。正直に感想を述べると、なんだかよくわからない。バイトの募集なのか、サークル員の募集なのかも曖昧で、簡素な内容からはいろんなことが返って想像できてしまう。もしかしたら、穴掘りというのは、土木系研究室の研究の一環なのかもしれないし、考古学や環境系の研究室から依頼されての採取のバイトかもしれない。そう、チラシからはどんな目的で穴を掘るのかがさっぱりわからなかった。普通のやつならここでこのチラシはスルーするか、笑い話のストックとして蓄えておくかだろうが、……気づいていたら、僕は四つの画鋲を抜き、はがしたチラシを手に持っていた。
 そんな経緯で、僕の研究室の机の上には、そのA4の紙を半分に切ったくらいの大きさのチラシが乗っかっていた。風に飛ばされないよう、ちょっとした重しを乗せて。僕はぼんやりと頬杖をついてそいつを眺める。さて、メールしてみようか。いや、仲間になるつもりはないが、なぜ穴を掘るのか僕はどうしても大変気になったのだ。この昼休みの間に捨てアドを取って、身元を隠してメールをすればいい。そう、何もバカ正直に名乗る必要はない。ただ一言、「何のために穴掘りをするのですか?」とだけ書いて送ればいい。よし、そうしてみよう。
 
 一時間後、返信が返ってきていた。妙な高揚感を抑えつつ、にやけた表情を周囲の連中にばれないようにしつつメールボックスを確認する。「Re 穴掘りの理由について」をクリック。
 
初めまして。
牧屋 鉄郎と申します。
この度は興味を持ってくださって嬉しく思っています。
 
さて、穴掘りの理由なのですが……
正直申し上げまして、うまく説明できません。
掘ってみればなんとなくわかるかもしれませんから
もしよかったら一度、現場に御越しください。
私は火曜日以外でしたら、八時以降グラウンドにいますので
気軽に声をかけてみてください。
私はいつも○○にいます。

こいつ、意外に賢いやつなのかもしれない。穴掘りの理由を餌に僕を勧誘しようって腹なのか? 訪問販売や資格の意識調査といったものに弱い僕は、本能的にそんな意図を疑ってしまった。
うまく説明できないと書いている時点で、明確な目標がありそうなバイトや研究の線はほとんど消えた。だとしたら一体何が理由なのだろうか? さすがにこの返信では、無理に理由を問うのに気が引けるし、冷静に考えたらここで手を引くのが普通だろう。
 ……気がついていたら、大学のグラウンドの隅に僕は立っていた。腕時計の時針が示すのは八時十分の時刻。夏が近くなったとはいえ、辺りはすっかり暗く、周囲の棟の明かりが漏れてきているのがわかる。グラウンドは多目的で使われるため、雑然としていて広く、ある種森林公園のような体裁をなしていた。僕はテニス部の部室の裏を回って、あまり使われることのないエリアへ足を運んだ。牧屋という人間に見つかるのが正直嫌だったため、フェンスや木に身を隠しながら、目的の場所まで進んだ。
 グラウンドとしての整地がなされていない、木々や雑草に囲まれたエリアにおそらく牧屋と思われる男がいた。中肉中背の、まるで工事現場の作業者のような様相で、白いTシャツと首にかけたタオルで。顔はよく見えないが、がっちりした感じの輪郭に思えた。手にはただ一本のシャベル。僕が中学の頃に、農業実習で使っていたのと同じタイプ。彼の周囲には誰もおらず、彼一人が少し離れたところにある電柱に見守られながら、黙々と穴を掘っていた。男はシャベルを地面に突き刺し、「んっ」という声と共に土をかき出した。土は、男の背後に放り投げられる。また男の「んっ」という掛け声と共に土がかき出された。僕は牧屋の様子を十分ほど見ていたが、ずっとその繰り返しだった。
 
 急に徒労感が全身に及んだ。“得体もしれない男が行う穴堀りの目的を知る”という目的が叶わないことがわかったからだ。僕の目の前、約十メートルほどのところにいる男は、ずっと土をかき出しているだけで、穴の中から何かを探したりだとか、そういった本質的な行動を微塵も見せようとしないのだ。
 僕は木の根元に座り込んだ。雑草の上を走る夜風の音に耳を澄ませながら、ぼんやりと空を眺めた。白濁した汚い夜空だと思った。夜は本当は真っ暗でなければならないのに。いつまでもどこまでも人間の排出した残りカスのようなものがこびりついている。駅前のパチンコ屋のサーチライトが最高に憎たらしくなった。繁華街の下品な原色ネオンや電光掲示板にいらいらを感じた。有名なカラオケチェーン店のライトアップの白々しい清潔さに腸が煮え返る思いがした。けれど、こんな僕の感情すら、空を白濁させる要因の一つになり得るかもしれないと思うと、妙にやるせなくなる。ああ、夜風が僕の体温をどこかへ持って行ってくれればいいのに。
 
 ぼーと、どこかへ飛んでいってしまった僕の意識を引き戻したのは、暑苦しい穴掘り男の掛け声だった。穴は淡々と一定のペースで掘り続けられ、それ以外のもの音はグラウンドに存在しなかった。
 急に僕の胸の中に度胸が生まれた。彼の元に近づくのが恥ずかしいことではないような気がしたのだ。後で考えるとまったく不思議なのだが、僕は臆することなく、穴掘り男の方へ足を運んだのだ。今この時なら、穴掘りの理由を聞けそうな気がしたのだ。
 僕が近づいているのがわかると、彼は作業を中断しシャベルを放り出して、僕のほうへ体を向けた。まだ暗くてお互いよく見えない。彼との距離十メートルが五メートルになると、僕は急に汗が吹き出るような感覚を味わった。三メートルで、三十秒前の自分の行動を後悔。二メートルで、後ずさりギリギリの速度になり、一メートル七十センチメートルで帰りたくなった。そう、牧屋という男はけっこう怖い顔をしていたのだ。
 
 「君、メールの……」
 「あ、はい。是非お越しにと書いてあったので……」
 「じゃあ、ほら、コレ。用意しといたから」
 「えっと、え、……コレ、シャベル?」
 「そう。使ったことあんだろ?」
 「あ、ありますけど」
 「じゃあ、大丈夫だな」
 「はあ」
 「俺、穴のこっち側の淵を広げていくから。君はそっち側で」
 「あの――」
 「お互いのシャベルがぶつかると危ないからね」
 「え〜と」
 「ん? どうかした?」
 「いやあ……」
 「じゃあ、始めようか」
 「はい」

 僕らは終始無言のまま、一時間半、穴を掘り続けた。僕は自分自身で、それほどコミュニケーションに問題のあるタイプだとは思っていないが、僕らの会話はなぜかちっとも始まらなくて。会話を押しとどめる空気のようなものが周囲を漂っていて、別の表現をするなら声帯が萎縮したような感じになって。けれど、その違和感は時間とともに必然的な自然なものへと姿を変えていくのだった。この不思議な時間の流れを止めないための――沈黙――だったのかな。
 どこか気まずさを隠し切れない状態で始めた穴掘りだった。僕は牧屋を気にしながら、彼を横目にしぶしぶスコップを土の部分に突きさす。いつまでやれば自然にこの事態が収束してくれるのかを、絶望的な気持ちで考えながら土をかき出す。牧屋の迫力に押されて、今の状況に陥らせてしまった自分の情けない態度に腹立たしい思いをしながら、後方へ土を払う。きっと僕は苦虫を噛み潰したかのような表情。クジで学級委員長の任についてしまったときの、あの時のような僕の表情。客観的な位置から僕を見たら、最高にやる気のない男に見えただろうと思う。そしてなぜかクールを装わなければならない醜い責任感を着込んで。中間テスト前に仲間同士でしぶしぶ勉強会を開き、やる気のある友人を横目に、早く勉強会が終わらないものかと思いを巡らす、あの心境にもずいぶん近い。が、二十回、三十回と土をかき出していくうちに、その硬さは溶けていった。腹の奥の強情なつっかえ棒が、するりと抜けてしまったかのように、拍子抜けしてしまうぐらい簡単に心のつっぱり感がするりと抜けた。
 僕らの目は時折合った。しかしそれだけだった。そこに何の感情のやり取りもなく、ただ目が合ったという現象があるだけだったのだ。だから僕は僕の意志によってのみ、穴を掘ることができた。何の義務感もなく、体のリズムに従って、単純な目的に向かって、軽快に。どのように穴を掘るべきか。穴径を広げて掘りやすくしてから、深く掘っていくべきか。最初の牧屋の指示を僕なりに広げて、半ば空想じみた思考と共にシャベルを突き刺していく。大地から切り離された土は、僕のシンプルな欲求を満たすようにうず高く積み上げられていった。決して没頭したわけではなく、疲れを感じたら中断しながらの作業だった。
 そうやって僕らは終始無言のまま、一時間半、穴を掘り続けたのだ。
 突然、何かを伝えようとする意志を持った視線が飛び込んできた。そういうのから少し遠ざかっていたので、僕は思わずハッとした。
 
 「もう、終わりにしようか」
 「そうですね」
 「シャベルはその辺に置いておいて。片付けておくから」
 「はい」
 「俺はここに三メートルくらいの縦穴を掘りたいと思っている」
 「そうなんですか」
 「君も自由に掘るといい」

 牧屋の言葉におや、と思う節もあったがそれは言葉の不確かさ故の違和感だろうと好意的に考えることにした。メールの文章や牧屋の表情などをみると、自由であることはしっかりと保証されているように思えたからだ。言葉はいつだって不確かさを内包しているものだと自分に言い聞かせて、どこか物足りなさを感じながら、ゆっくりシャベルを片付けた。
 それから僕らはどうしたかというと、これっぽっちも会話のないままグラウンドを後にし、簡単な会釈一つで別れてしまった。そのときはもっとも自然な終わり方として納得していたものの、三十分もするとなんだったんだアレは? という気がして、気恥ずかしさを感じるのだった。
 僕は夜の大学のメインストリートをぼんやりと歩き、誰もいない研究室へ戻る。エアコンの壊れた研究室は、グラウンドの快適さとは比べ物にならないほどひどく湿っぽく、まとわりつくような暑さで僕は閉口した。動かすたびにキィーキィー鳴る椅子にどっかり座り、最近始めたタバコを吸ってみる。もちろん研究室内は禁煙である。空気に動きがないため全く拡散しない煙と、研究データのつまったストレージサーバの無機質なファンの音に体を浸しながら、もう一度アレはなんだったんだと考えるが、どうもわからない。おそらくここでは魂が動かないからわからないのだと思った。勉強は楽しいと思っている。波形データを解析するためのプログラムを書くときなど、体育の授業くらい楽しいと感じる。思い通りに数値データを操る感覚はうまく言葉にできない。理解できそうにない数式を考えている時だって、自分の限界に時々刻々挑戦しているようで、成長している自分を味わうことができる。だから基本的に、ここにいるのは好きなのだ。けれど、僕のコアはそれに満足しているのだろうか、と疑問に思う。曖昧な表現――コア。言葉や理屈でやりこめることのできない、肉体と精神の混じりあった、本当に融通の利かなくて、わがままで、貪欲で、いつまでも愚図っている赤ん坊のような、そんな部位。この部位を消すことが大人になるということなのだろうか。こいつの存在を忘れて、金曜の夜に飲み会をして、十二時半前に上品に終電で帰る段取りを考えているしたたかさが頭の中を支配することが大事なのだろうか。息苦しいネクタイを調節しながらコンサートホールでクラシックの甘美な調和に酔うことが、豊かな人生なのだろうか。
 ……
 嘘だ!
 嘘だ嘘だ!
 どれもこれもクリアじゃない。あの空と同じで白濁している!
 瞬間の嫌悪感と濁った体のイメージ。椅子を蹴り倒して、逃げるように研究室から出る。全力疾走など久しぶりにしていない。階段を前のめりに駆け下りる。走る。走る。風を切る。空気に引っかかって濁った部分が剥がれ落ちていく。もっと速く。速く。メインストリートを越えて、もう一度あの場所に。
 
 グラウンドは湖底のような静けさだった。先ほど来たときに比べて風もなく、湿気もずいぶん少なくなったようだ。草や樹の葉が擦れ合う音もほとんどなく、視界だけがただクリアで、本当にそれ以外はなにもなかった。僕はシャベルを探す。ほどなくして牧屋がシャベルに被せたブルーシートが見つかった。そいつを乱暴に退けてシャベルを一本手に取った。さっきよりもしっくりくるこの重量感。僕のコアでこいつを思いっきり振り回したい。
 牧屋と一緒に掘っていた穴に、生まれ変わろうとがむしゃらな僕のシャベルの一刺し。ぎぃんと金属と石がぶつかる反響。痛い。手が痺れて、同時にさっきの疲労感が戻ってくるのを感じた。石の部分はとりあえず避けて、掘る。どれだけ深く掘ろうか、どれだけ広く掘ろうか。そんなことは実は二の次で、僕のコアに従ってシャベルを振り下ろす。土をひたすらかく。
 コアは大食らいだ。どれだけ食っても足りないはずだ。それを僕は、毎日ほんのちょっとの栄養だけ与えて納得して、そいつがやせ細っていつか居なくなるのを無意識に待っていた。なんて生命力のない! なんて浅はかな生き物! 僕は生き物だ。メインストリートで怪しげな宗教系のサークルに勧誘されたときのことを思い出す。
 なんのために生きるのか、一緒に考えていきませんか
 そんな頭でっかちな目標に向かって人間は走っていけるものか。一瞬一瞬を精一杯生きて、それで少し前を見て、泥臭い道をもがきながら。そんな風なのではないのか。いや、実は本当のところはわからない。もっと賢く走れて、効率良くもがく方法だってきっとあるだろう。でもわからない。考えたって簡単に思いつくことでもないし、そのときの正解がずっと正解であるとは限らない。だから、わからない。ただそれでも、確かに言えるのは、この魂の不完全燃焼は気持ち悪いってことだ。空回りをするエンジンのように、一般道を走るスポーツカーのように、無意味なエネルギーを抱えて燻っている、この疾走感のない状態!
 ――思考を停止。
 深呼吸を大きくひとつ。
 僕は、掘る。土を叩くように掘る。次々と生まれてきそうな雑念を振り払うようにシャベルを突き刺す。ひらすらに。僕は、掘る。

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