『パーソナルダウン』


 今日も朝起きるのがつらい。布団から身体が出ようとしない。もう少しだけ布団の中にいて、生産的にも今後の人生のプランなんか考え始めたら、もう時計の針が一時間も進んでいる。そんなことが毎日だ。結局完璧な人生プランなんか全く立てれていないし、むしろ遅刻の言い訳を行きの電車の中で考える場当たり的な日々を過ごしている。すごく情けない。連続した良い循環の中に俺の人生はないのだろうか?

 英会話の教材は購入後、こたつの上で埃を被っている。書店で買ったときは毎日こなしていこうと決心したのに。二日でこのざまだ。
 メタボリックな身体を矯正しようと始めた筋トレも、身体の調子の良い日にしかやらなくなった。最近身体の調子が悪いんだ実は。つまり眠いってこと。
 仕事も場当たり的だ。本来覚えなきゃだめなことも、優秀は部下に任せて自分がごまかすようになってしまった。部下の質問をうまくキャンセルすることだけに神経を尖らせている。情けねえ。これで給料がもらえるのだから、不思議なものだ。ただもう出世は望めないだろう。
 
 こんな腐った日々だ。原因ははっきりしている。俺が腐っているから。俺が怠け者で、今この場に横たわっている問題を片付けもせずに逃げることだけを考えているから。さらに良くないことに、逃げることに負い目を感じている。怠け者のまま突っ走ることができたらどんなに楽だろう。仕事の責任を感じることなく、英会話も始めようとも思わず、筋トレだってやらないだろう。負い目を感じるから、楽な方法で改善しようとして失敗して、また負い目を感じて。この毎日の繰り返しだ。腐った循環。努力している同僚や同学年の友人たちが光って見える。もう同窓会には顔を出していない。一度出なくなったら、どんどん顔を出しにくくなり、三年前から出席確認のカードもこなくなった。
 腐ってやがる。泣きたくなってくる。電車にでも飛び込んで人生を終了させてしまおうか。どうせ俺なんていなくなっても会社はうまく回るし、家族だっていない。実家の両親は有名商社に就職した弟に任せれば問題ないだろう。両親に万が一のことがあっても、俺はそれを取り仕切る自身がない。結局忙しいとか、適当な理由をつけて弟に全部丸投げするだろうな。だから俺がいてもいなくとも最初から問題なんてないのだ。
 
 そんな具合に、飛び込んでも周囲の皆様に迷惑のかからないロケーションを探していると、薄暗い商店街の中に俺は入っていた。いわゆるシャッター商店街。寂れている。年寄りしか歩いていない。電信柱には風俗のチラシが貼り付けられていて、けなげにも誰かが剥がそうとして中途半端にめくれている。俺の生きかたみたいで親近感が湧いた。
 電車を音に耳を澄ませ、見失った線路を探す。すると右手前方のドラックストアと汚い肉屋の間の路地から音が漏れ出していることに気がついた。肉屋の近くの路地だから、汚いだろうな、と思ったがこれからいなくなる人間に清潔感も何も関係ないだろう。そう思い路地を進む。
 
 路地の先はよく見えなかった。それでも前へ進んだ。肩にくもの巣や油みたいのが着いたが、途中から全く気にならなくなった。さらに進むと小さなビルに行き着いた。どうやらこのビルが路地の終点のようだ。しかもビルの入り口がここだなんて、よほど使われていないビルなのだろうか。それでもいくつかテナントが入っているようだった。ちょっと危ない店が入っているのかもしれない。電車の音はこのビルの裏側から聞こえてきたのだろう。そう思い、引き返そうとしたとき、ビルの入り口の張ってあるチラシが目についた。
 『人格作ります。すぐ出来ます。ご興味のある方は当ビルの三階へ』
 人格作ります? どういう意味だろうか。俺の性根を叩きなおしてくれるのだろうか。もちろん怪しい。この黄ばんだチラシからして怪しい。小規模な宗教の勧誘なのだろうか。けれど興味は湧いた。今まで心理カウンセラーなど利用したことがない俺にとって、自分の精神的な部分を何とかしてくれそうなものは魅力的に映った。だったら、もっと安全そうな心理カウンセラーがいるクリニックへ通うべきだが。
 せっかくだからだめもとで試してみるか。薬など危ない治療行為をされそうになったら、そいつをぶん殴って出てくればいい。腕っ節には自信があるからな。
 ビルの扉を引いて、すぐの階段を進む。誰も掃除をしてないらしく埃や空き缶、タバコの吸殻があちこちに転がっていた。窓ガラスもくもの巣や、いろんなもので曇ってしまっていて、ただでさえ少ない陽の光がほとんど入ってきていない。わずかに入った日光が、ビル内に漂う埃を浮かび上がらせている。まるで社会の掃き溜めのような、不衛生で最低な場所だと思った。ほどなくして、三階に到着した。テナントの入り口には、ビルの入り口でみたのと同じチラシが貼ってあった。チラシのわりにドアがビルに似つかわしくないほど立派で重厚だった。インターホンがなかったので、直接ドアノブに手をかけて入ることにした。
 「すみません。入り口のチラシを見て来たんですが」
 あまり迷うことなく、扉を開けることができた。驚いたことに、扉の向こうは高級マンションのように立派な作りになっていた。玄関には高級そうなマットが敷かれていて、落ち着いた白の壁とオレンジ色の照明が配置されていた。その辺にある個人経営の小奇麗なクリニックよりも豪華な作りだと思った。もう一つドアをはさんで、向こうの部屋からパタパタとこちらに向かってくる足音が聞こえた。
 「あ、どうも。お待たせしました。初めての方ですよね。奥へどうぞ」
 「え、はい。靴は――」
 「靴は脱いで、そのスリッパをお使いください」
 若い奴だった。長身で少し長髪で、白衣の似合うやり手のドクターって感じの。予想と全然違うじゃないか。俺はてっきりタバコくさい部屋で、くたびれた年寄りが出てくるのかと思っていた。俺はスリッパに履き替えて、そいつについて行くように奥の部屋に向かった。
 部屋に入ると、ブラウンのソファがまず最初に目に入った。通販で買えるような安物ソファなんかじゃない、本当にふかふかのやつだ。ソファは二つあり、お互いに直角になるように配置されていた。ソファにはさまれる形でガラステーブルが一台。それらから少し離れて、ベッドが一台あり、移動式のカーテンで半分見えなくなっていた。部屋全体の雰囲気としては、さきほどの玄関の廊下のように、落ち着いた白といった具合。けして目に突き刺さってくるような、病院的な白さではなかった。おそらく照明に気を使っているせいだろう。
 「どうぞ、お座りください」
 ドクターが笑顔を見せながら、ソファに座るよう促した。全く作為のないスマイル、こいつは女にもてるだろうな。ドクターはもう一つのソファに座った。路地で汚したスーツでソファに座るのは気が引けたが、路地奥にテナントを構えているのでしょうがないか、と思いどっしり座った。
 「どちらでこのクリニックをお知りになったのですか?」
 「いや、路地を進んでいたら行き当たっただけです」
 「へえ!」
 ドクターは本当に驚いた様子で声を上げた。いろんな動作にこいつは屈託がないというか、今のところそんな印象だ。
 「いやいや、失礼しました。実はここネットで見て来る人の方が多いんですよ。多いというか、全員ですね。ですからあなたが初めてなんですよ、直接おいでになったのは」
 俺はそうなんですか、と相槌を打って、医者もネットで客を集める時代なのかと思った。まあ、ここの場合はそれよりももっとアンダーグラウンドな気配がするが。それからお互いに簡単な自己紹介をして、名刺を交換した。こいつは中谷というらしく、きちんと医者の免許を持っているようだった。俺がドクターと表現したのは間違っていないということだ。
 「それでは、診療に入りましょうか。当クリニックには心理的な悩みを抱えた方が訪れますが、林さんもそうですか?」
 ずいぶん回りくどい言い方だ。俺は素直にそうです、とだけ答えた。
 「どういったお悩みでしょうか? 整理されてなくても全く構わないので、ちょっとお話していただけませんか?」
 このドクターはうまく笑顔と真剣な表情を使い分けているようで、それを見ていると、無条件に安心してしまうような感じを受けた。俺にはこんな器用なことはできない。
 「実は――」
 俺の話はほとんど整理されていなかったように思う。時折沈黙をはさみながら、英会話が続かないだとか、仕事をごまかしてしまっているだとか、そういった事実を淡々と説明した。こんなことを他人に話すのは初めてだったので、その気恥ずかしさは相当なものだった。もしこれが、俺の近所にある病院やクリニックだったとしたら、周囲の患者の手前、恥になると感じ話すことができなかっただろう。誰も近寄らないようなビルの一室にある、不思議に立派なクリニックという事実が、俺の告白の手助けをしていたと言える。うさんくさい医者だったら文句のひとつでもつけて帰ってきてやろうかと思っていたのだが、不思議と喋ってみようという気になったのだ。
 話せば話すほど、自分が本当にだめで価値のない人間にように改めてだが思えてきた。よくある話で、カウンセラーに向かって話すだけで心のしこりが取り除かれるというが、俺の場合はそれと全く逆でますます気分が落ち込んできた。
 中谷というドクターは、そんな俺のどうしようもない話を実に真剣な表情で聞いていた。その表情は時折、同情するような悲しい気持ちを表すものに変化しながら、とても自然に俺の話を受け止めてくれていた。喋ると落ち込んでしまう一方で、ドクターの表情の変化と相槌だけでほんのわずかだか癒されている自分がいた。こんなに話を聞いてくれている人は本当に久しぶりだった。
 俺は一時間も喋っていただろうか。少し疲れてソファに深く座り込んだ。
 「お疲れでしょう。ここでいったん休憩としましょう。今飲み物を持ってきましょう」
 そう言ってドクターはキッチンの方へ行ってしまった。
 窓から夕日がうっすらと滲んできていた。もうそんな時間なのか。ビルの谷間の最悪の立地条件の部屋にも、夕日は届くのだな、と妙に感心してしまった。
 ドクターと特に話題もないまま、コーヒーを飲み干すと
 「それでは当クリニックの治療方針をお話しますね」
 とさっそく治療に入ることを示唆された。
 ドクターは急に真剣な表情になった。メガネの奥にカミソリのように鋭い視線の発信場所があるような、あまりの鋭さに俺はうろたえてしまった。
 「個人の癖や性癖、そういったものを改善するのは大変な努力が必要です。誰かの指導の下、改善を試みてもまた後で元に戻ってしまうことがとても多いんです。ダイエットのリバウンドのようなものでしょうか。パーソナルにもそういったリバウンド現象が多々あります。これにはいろいろな要因があるのですが、世間ではそれを意志の弱さのせいだと一緒くたにしてしまっています。でもこれはとても乱暴な議論でして、よく病気になる人に対して、それは身体の弱さのせいだ、と批判するようなものであまり生産的な話とは言えません。そして実際生産的ではないです」
 「はあ」
 パーソナルのリバウンド…… まさに俺が何度も経験してきたことだ。結局変われなかったのだ。
 「当クリニックでは、そういう非生産的なことは致しません。つまり個人的な癖であるとか、性格を変えようという努力はしないということです」
 「え? ではどうやって俺みたいな人間を変えようというのです?」
 ドクターは白衣の胸ポケットから黒光りするボールペンを取り出し、一度回した後、それで自分自身の頭を指した。
 「頭の中にもう一人のパーソナルを作るんです。今の自分を変えずにもう一人別の」
 かなりばかげた話に聞こえた。だがドクターの表情があまりにも真剣で自信に溢れていたため、俺は批判しようにも声すら出すことができなかった。ドクターは意味深に俺の目を覗き込んでいた。
 「お気持ちをお察しいたします。大変奇妙な提案に聞こえるでしょう。ええ、私だってこんなことを言われたらそう思います。まあ、落ち着いて話だけでもお聞きください。それでとても信じられないと思ったら、すぐにでもお帰りになってけっこうですから、さあ」
 俺は無意識のうちにソファから腰が浮いていたことに気がついた。実に情けないスタイルだ。身体が反射的にドクターに食いかかろうとしていて、しかしドクターの目を見てびびって固まったという具合だ。俺はまたソファに腰をおろした。
 「よろしいですね。では」
 ドクターも俺を見て座りなおした。
 「頭の中に今の自分とは別のパーソナルを作るんです。林さんの場合でしたら、英語が好きで、仕事にも集中力を発揮する、怠け癖のない性格を持ったパーソナルを。いいですか、そうしたらあなた自身がすることはただ一つになります。お分かりになりますか?」
 「まだ、よく想像できません……」
 「頭の中に二つの性格のモードを作るとお考えください。仮に作ったとして、その時林さんがするべきことはただ一つになるのです。それは、必要なときに性格のモードを切り代えること。これだけです。自動車のギアチェンジのように、それは一手間に過ぎません」
 自動車のギアチェンジ。そう言われて少し想像できた。ほんの少しだが。
 「例えば、朝起きて布団から出られないとしましょう。今までのあなたでしたら冬の寒さに耐えること、眠さに耐えること、これから向かう仕事場に行くというプレッシャーを跳ね除けること、そういうたくさんの心理的プレッシャーに見舞われてきました。そのため起きることができなかったのです。でもこれら心理的プレッシャーに耐えうるパーソナルを導入したらどうでしょうか? あなたはそれに切り替わるだけで、あとはそのパーソナルがやってくれるんです」
 「まだちょっと信じられませんね。それは二重人格になるということでしょうか?」
 「よくそういった懸念を持たれる方はいます。とても自然な疑問だと思います。パーソナルの交代がすなわち人格交代ではないか、ということですが、それは全く違います。人格交代の場合は、交代している間の記憶は全くないのですが、パーソナルの交代は記憶があります」
 「それはどういった状態なんですか」
 「パーソナルの交代というのは、意識的に性格を切り替えるということ以外の何者でもないのです。スイッチを切り替えるだけの手間で良いのです。後は自動で交代したパーソナルがやってくれる。そういうイメージですね」
 「まだ信じられません。代わったといっても俺は俺だから…… その何て言うか、俺がめんどくさいと感じたら、結局めんどくさいままなんじゃ……」
 二重人格じゃなくて、記憶があるとしたら朝起きて眠いと感じるのは俺だし、寒くて布団から出たくないと感じるのも俺だろう。その俺を残したままで、代わったパーソナルとやらがうまくやってくれるなんてとても想像できない。二つが一つの頭の中に一緒に存在する感覚が想像できない。
 「訓練するんですよ」
 「え?」
 「自分が代わっているんだと、自覚できるように、信じることができるように訓練するんです。さあ、横になってください」
 もう訓練とやらは始めるのだろうか? 俺は促されるままソファに寝かされた。
 「上着は適当に脱いでください。寒かったらそのままでいいですけど」
 「上着はこのままで良いです。で、訓練とは――」
 「寝るんです。まずは。横になるんじゃなくて、スリープの方の意味で」
 どういうことだ? 訓練をするとかいいながら眠れというのか。話が最高に怪しくなってきた。というかもう信じれる最低のレベルからずいぶん浮遊した場所にいるような、そんな気分だ。半ばドクターの強引さに従うがままに、好奇心がちょっと手伝ってこの気分を作りだしている。信じるとか信じないとか、もうどうでもよくなってきたというのが本音だ。寝ろと言うなら寝ようじゃないか。ちょうどよかった、あの汚いアパートで寝る手間が省けたじゃないか。
 「はい、では電気を消しますね。とりあえず何も考えずにぐっすり眠って下さい。四時間程度寝てもらおうかと考えていますので、本格的に眠っちゃってください。それではまた」
 そう言うとドクターは別の部屋に消えていってしまった。直後、部屋の電気がすっかり消えてしまって、空調がONになっていることを示す青色ダイオードのみが光る部屋に俺は取り残された。
 いったい俺はここで何をやっているのだろうか?
 ふと寂しさが身にしみた。誰かのペースに流されながら、暗い部屋で一人きり置いていかれるのには慣れているはずなのだが……
 
 外を走る車の音が聞こえる。
 それ以外は本当に静かだ。
 日本人は虫の音をまるで音楽を聴くかのように味わっているらしいが、俺には車の音が心地よく聞こえる。ちゃんと時間が流れているように感じれるからだ。
 
 室温がちょうどいい。
 暑くもなく寒くもなく。
 頭を巡るのは、後悔の記憶。
 仕事、日常、怠惰。
 そのくせ寝る時間だけは人一倍。
 明日、目を覚まさなくてもいいや。
 このまま、このベッドで死んでしまっても、それはそれで悪くない。
 明日が来たら、仕方なく生きることにしよう。


 目の前が突然白くなった。
 明るい。不快。ん? 誰かが横にいる。
 「林さん。林さん、起きてください」
 なかなか開こうとしない瞼を無理やりこじ開け、明るさに閉口しながら横を見るとドクターが居た。一体何時間寝たのだろうか? 頭がくらくらするほど眠い。正直言って、起きたくない。
 「もう少し、寝させてくれ……」
 無意識に出た言葉。もう両目は閉じてしまっていた。
 「森さん、起きてください森さん!」
 森? 誰だ? 俺は林なんですけど……。あー眠い。
 「森さん、起きれますよ。あなたは寝起きがすごくよろしいのですから。ほら!」
 いや、森じゃねーっつの。このドクター頭がおかしくなったのか?
 「頭の中で、眠いって言ってるのは林さんです。その人を引っ込めてください、森さん」
 引っ込めって? 眠いからこのまま引っ込んでやるよ。本当にうるさい。
 「森さん、森さん」
 突然、怒りたくなった。人がぐっすり寝ているのに、この医者は! しかし俺はなんでここに寝ていたのだろう?
 「あーうるさいうるさい。森だの林だの、もう少し寝させてくれないか!」
 俺は怒った。目が半開きの状態で。意外と声もでかかったと思う。
 「お、起きてくれましたね、森さん」
 いや、起きてはいないのだが。それに俺は林だ。ん? そういえば俺は治療中だった。
 「さあ、立ってください」
 ドクターの笑顔は、俺の寝起きの顔とは対照的に晴れやかだった。まるで何かの成功を確信しているように。
 それから俺はドクターの指示のもとで部屋をぐるぐる歩きまわされ、目を覚まさせられた。そうしているうちに、俺はこの行動がドクターの言う「訓練」の途中だったことを思い出した。
 「ドクター、これが別のパーソナルってのを作るための訓練なのですか?」
 「そうです。あなたは寝て起きるといった基本的なことで成功体験をしなければならないんです。そうすることによって別のパーソナルの存在を信じることができるようになりますから」
 寝て起きるのが成功体験ね……。はっきり言って別のパーソナルなんて作れたり信じれたりする自信なんてこれっぽっちもないが。
 「林さん」
 突然、ドクターが真面目な顔つきで俺の目を覗いてきた。できる男ってのはこういう目をするやつが多い。やつらは往々にして成功を確信しているのだ。俺はその対極にいるような人間だが、それだけはわかる。
 「林さん、この際はっきり言ってしまいますが、あなたはあなたのままで生活を更正しようなんて絶対に無理です。林というパーソナリティはもう治療が手遅れなのです。そんなゴミのようなパーソナルは今日、この訓練で捨て去ってしまうか、頭の奥に押し込んでしまってください。いいですか、絶対に手遅れなんです、あなたのままでは」
 ゴミのようなパーソナル…… 俺は聞き間違ったかと思ったが、そうではなさそうだった。ゴミね、確かにその通りじゃないか。何をいまさらショックを受けているんだろうか、この俺は。怒りを通り越して、むしろ晴れやかになったような気がした。そういえば、こんなシンプルな批判はいつ以来だろうか? 新入社員のときの研修以来かもしれない。
 「治療の初期の段階では、あなたのメインパーソナルは林であり続けるでしょう。それは今までずっと続いてきたことなので仕方がありません。しかしですね! いいですか! 林でだめだ、と思ったらすぐに森に交代してください。林さんにはそれだけならできます。すぐに交代するんですよ」
 「わかったよ、ドクター……」
 俺は、その一言でしか返答することができなかった。そしてドクターと目を合わせることができなくなった。というかその場にいるのが恥ずかしくなってきたのだ。俺なんて人間が、このドクターと一緒の空間に居てはいけない気がしてきたのだ。
 「少し時間をくれないか? あんたの言うことは信頼するさ、けれどなんというか、いろいろ言われてその意味が身体に染み込むまで時間がかかりそうなんだよ……」
 口から自動的に出てしまったこの言葉。言ってしまったあとで気づいたのだが、これは俺があらゆる場面で使ってきた保留という行動だ。また俺はブレーキをかけようとしている。
 「林さん、いや森さん。あなたはもう理解しているはずです。今の言葉に何の意味もないことにね。しかし、今のご自身の言葉で逆に確信したのではないですか?」
 一体、何、に?
 「ゴミのようなパーソナルからは、ゴミのような考え方しか浮かばないことに」
 ドクターの目はまるで殺人鬼のように、冷徹で残酷なものだった。蛇に睨まれた蛙のように俺はすっかり萎縮した。“ここ”では俺は全く通用しないのだ。
 いつも負けをうやむやにして生きてきたけれど、今日の負けは完全に負けである。自分の性格の構成すら他人の知識や積極性に押されるがまま、変えられるなんて(もし治療が成功したらの話だが)。全くもって俺の人生の縮図だ。俺はいつも結局他人の言うことを聞いて、表面上は反発して、不満を言いながら誰かの敷いた路線にただ乗っていただけなのだ。進学校への入学も、大学選びも就職活動でさえも。それからの人生だってずっとその惰性に過ぎなかった。そしてここでも!
 「ゴミのような、パーソナルか。確かにその通りです。何年もかけて俺は俺の人格を腐らせてきたんですね。いや、怒ってなんかいませんよ。実際、そのことが嫌で、どうしょうもならなくて自殺しようとしてたんですからね」
 自殺という言葉を聞いて、ドクターは顔を横に振った。いろんな意味が含まれているジェステャーだったと思う。驚きや同情、そしてやはり、という確信。
 「そんなに落ち込まないでください。これは希望のある治療なのですよ」
 突然ドクターの表情がやさしくなった。声もどこか温和で包容力のあるものだった。
 「あなたは逃避癖の非常に強い人間です。この治療はそういう人間にこそ効果があるのです。なぜならパーソナルの交代というのは究極の逃避行動ですからね、あなたはこの治療に向いているのですよ。あとはそれを信じるための訓練です」
 ……ははっ。俺がこの治療に向いているだってか! なんてことだ、この治療は逃避癖を応用した治療だったのか。思わず声を出して笑いそうになった。こんな俺に向いていることがあったなんて。ゴミのようなパーソナルがゆえに! ホント、ホント笑い話のようだ。
 
 
 これ以後のことは、単純なルーチンワークのような訓練だったので多くは語らないことにしよう。俺は結局、このドクターのもとに一週間寝泊りしながら、寝起きや家事にいたる全般の生活行動において、パーソナルの交代訓練を受けた。ドクターは事あるごとに「森さん、交代していますか?」と俺に代わっていることを尋ねてきた。ドクターの指示で、その返答には必ず「はい」と答えることになっているのだが、まあ基本的に訓練とはたったそれだけだった。たったそれだけを馬鹿みたいに愚直に繰り返した。
 効果は四日目の昼に出た。昼寝から目を覚ましたとき、俺は無意識に「交代だ」という声を頭の中で呟いた。その瞬間に突然、気が楽になり、起きることへの抵抗感が減ったのだ。驚いた。これが交代成功の感触なのだろうか。何年かぶりの成功体験だった。
 
 やがてプライベートでも仕事でも、あらゆる場面で「森」でいることの居心地の良さを感じるようになった。林は日を追うごとに姿を見せなくなり、やがてどこかに消えていった。俺は俺の中のゴミを完全に捨て去ったのだ。
 
  FIN


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